時代によって理想的な女性像は変わる
日本では余り読まれていないらしいイギリス作家、ウィリアム・サッカリーの長編小説。私が読んだ中島賢二さんの訳では4つの単行本に分かれていました。
「虚栄の市」を読んで、久しぶりに子供の頃の物語に夢中になった感覚を思い出しました。自分がどこにいるか忘れてしまうほど入り込んだ読書経験の感覚を、今、また経験できました。単純に楽しめる物語です。4つの単行本との長編であるからこそ、物語の中のキャラクターたちとも随分仲良くなれます(心の中で)。著者が描いたという所々に入っている挿絵も、見ていて楽しい。
副題が「主人公のいない小説」となっています。主人公がいないとは言え、主要な登場人物は二人の対照的な女性、アミリア・セドリとレベッカ・シャープです。
筆者の理想の女性像、アミリア
本書は筆者が物語を書く口調で書かれています。19世紀当時の理想の女性というような描写がされている、アミリア・セドリ。裕福な商人の娘で世間知らず、箱入り娘で育ってきましたが、父親の商売の失敗と軍人であった夫の死から、貧乏まっしぐら。
事業に失敗し、年をとるにつれ気難しくなる父親と、アミリアのやること全てに否定的な母親と共に暮らすことになり、苦労します。
大人しく、一歩下がって夫についていくタイプでしたが、亡くなった夫はロクでもないやつ。ギャンブル好き、見栄っ張り、しかも結婚直後にアミリアの友人のレベッカ・シャープに言いよる浮気男です。
しかし、おばかちゃんで知性を高めようという向上力がなく、内向きのアミリアはそのことに全く気がつきません。ある意味、あっぱれ。自分が立たされている現実に気が付いていないのだから。密かにアミリアに恋心を抱いている、夫の友達のウィリアム・ドビンの方が断然いいやつです。
アミリアは夫のジョージ・オズボーンが戦死して、若い未亡人になってからもドビンの気持ちに気付いてあげられません。長い時を経て、ようやく気付いてからも夫の思い出を心に秘めて、ドビンをなかなか相手にしません。
先にも申し上げたように、本書は筆者の語り口調で書かれています。筆者がそれぞれの登場人物に寄せる思いが読んでいて感じられるのです。そして、筆者がアミリアという女性をとても高く評価していることが伝わってきます。
しかし、21世紀に住む私の感覚では何故そんな高く評価されているのか理解不能です。私にとってアミリアは現実を直視する能力がなく、あっても直視する度胸がない腑抜けです。良い男を見抜く直感も訓練も経験もなく、こういう女性が何故好感をもって描かれているか考えさせられました。
21世紀の女子のあこがれ、レベッカ(18世紀では理解されなかったらしい)
アミリアと対照的なレベッカ。二人は女学校時代の友人同士です。
父親が画家、母親はダンサーで、当時でいう下層階級。そこから這い上がろうとするレベッカ。美貌や堪能なフランス語、あるったけのコネクションなど、自分の才能を最大限に利用して玉の輿を狙う強い女です。
幼なじみの婚約者を優しく愛する(従う)だけしか脳のないような大人しいアミリアよりも断然交換が持てます。
けれど、この本が書かれた19世紀イギリスではレベッカが批判的な目で見られるのは当然だったのでしょう。私たちの現代の価値観と比較しながらそれぞれの女性像を読むのが、本書の醍醐味です。
題名「虚栄の市」について
「幸運など、一瞬にして大波のように崩れ去り、砕け散って、その後は栄華の名残が空しく浜辺に打ち上げられるだけなのだから。」
―虚栄の市(三) p. 92
解説にはこうあります。
「紳士も淑女も一皮剥けばすべては卑俗な偽善にすぎず、それぞれの虚栄から自由になれない存在である」
―虚栄の市(四)p.399
題名、「虚栄の市」からも分かるように、19世紀イギリスの階層社会(特に貴族階級を)を皮肉と批判を込めて書いた作品です。
上層の中流社会で育ったというサッカリーならではの辛辣な口調をたっぷり楽しめます。
それぞれの登場人物のキャラクター設定もしっかりしているので、長編小説ならではのキャラクターたちとの長い付き合いを満喫してみてください。
虚栄の市〈一〉
サッカリー (著), 中島 賢二 (翻訳)
妻の姉
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